ウルグアイ 後期リーグ | 03/08 19:00 | 3 | CAリベールプレート v ランプラ・ジュニアーズ | W | 4-0 | |
ウルグアイ 後期リーグ | 02/21 19:30 | 2 | モンテビデオ・ワンダラーズ v CAリベールプレート | D | 1-1 | |
ウルグアイ 後期リーグ | 02/14 19:30 | 1 | CAリベールプレート v CAアテナス | L | 2-5 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 12/06 20:00 | 15 | CAリベールプレート v ダヌービオ | L | 1-2 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 11/23 12:30 | 14 | ラシン・クラブ・デ・モンテビデオ v CAリベールプレート | W | 0-2 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 11/16 19:30 | 13 | エル・タンク・シスレー v CAリベールプレート | L | 1-0 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 11/08 19:30 | 12 | CAリベールプレート v IAスドアメリカ | W | 2-1 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 11/01 19:30 | 11 | ディフェンソール・スポルティング v CAリベールプレート | W | 0-2 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 10/19 18:30 | 10 | CAリベールプレート v タクアレンボ | D | 2-2 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 10/12 18:30 | 9 | CAフベントゥ・デ・ラス・ピエドラス v CAリベールプレート | W | 0-3 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 10/05 18:30 | 8 | CAリベールプレート v セロ | W | 3-0 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 09/28 21:30 | 7 | ペニャロール v CAリベールプレート | L | 3-1 | |
コパ・スダメリカーナ | 09/26 00:15 | 8 | CAリベールプレート v エメルク | D | 1-1 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 09/22 19:00 | 6 | CAリベールプレート v アトレティコ・フェニックス・モンテビデオ | W | 3-1 | |
コパ・スダメリカーナ | 09/19 00:15 | 8 | エメルク v CAリベールプレート | L | 2-1 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 09/13 16:30 | 5 | レンティスタス v CAリベールプレート | L | 2-0 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 09/07 18:00 | 4 | CAリベールプレート v ナシオナル・モンテビデオ | L | 1-3 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 08/31 18:00 | 3 | ランプラ・ジュニアーズ v CAリベールプレート | W | 0-2 | |
コパ・スダメリカーナ | 08/27 23:30 | 7 | CAリベールプレート v カトリカ大学 | W | 3-0 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 08/24 18:00 | 2 | CAリベールプレート v モンテビデオ・ワンダラーズ | L | 1-2 | |
コパ・スダメリカーナ | 08/22 00:50 | 7 | カトリカ大学 v CAリベールプレート | W | 0-1 | |
ウルグアイ 前期リーグ | 08/16 18:00 | 1 | CAアテナス v CAリベールプレート | W | 1-3 |
クラブ・アトレティコ・リーベル・プレート(スペイン語: Club Atlético River Plate)は、ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地とするサッカークラブ。
1932年にCAカプーロ (Club Atlético Capurro、1914年創設) とオリンピアFC (Olimpia Football Club、1922年創設) が合併して創設された。旧市街地を拠点としていたアマチュアリーグ時代の強豪リーベル・プレートFCに敬意を表して、クラブ名は同じものが採用された。 カプーロはリーベル・プレートFCのような赤と白のストライプのシャツを着ており、赤い翼の異名を持ったオリンピアは胸に赤い翼のマークがついた白いシャツを着ていた。また、当初リーベル・プレートFCは黒地に白のショーツがユニフォームであったが、1904年の内戦で白と赤のパルチザンカラーを身にまとった戦没者に敬意を表して、現在の赤と白のシャツに変更した歴史がある。これらを踏襲し現在のエンブレムやユニフォームとなった。
同年にプリメーラ・ディビシオンがプロリーグ化されるも、リーベルの最初のゴールキーパーを務めたフェデリコ・オマール・サロルディが、リーグ開幕直後のセントラル戦でのアクシデントによって不運にも試合から数日後にこの世を去った。それまでオリンピアパークという名称であったホームスタジアムは彼への追悼の意を込めて現在まで彼の名がつけられている
40年代には1年だけ降格したが、翌年には優勝してトップリーグに復帰し旧市街の通りは再び祝賀ムードに包まれた。50年代は、再び降格となるような低迷した時代の始まりであったが、1967年の優勝によってトップリーグに返り咲いた。
国内リーグでの最高位は1992年シーズンの2位である。
2009年に参加したコパ・スダメリカーナではクラブ歴代最高順位のベスト4進出を果たし、その後2010年、2013年、2014年と立て続けに国際大会に参加した。
2011年4月、クラブに大きな功績を残すことになるキジェルモ・アルマダが監督に就任すると、就任から1年も経たずしてトルネオ・プレパラシオンとコロニア県選抜チームとのコパ・インテグラシオンの2つのタイトルを獲得した。
2016年には、予選でウニベルシダ・デ・チレを破ってクラブ初のコパ・リベルタドーレス出場を果たした。