結果

NFL 01/07 21:25 18 [20] DENブロンコス v LVレイダース [23] L 14-27
NFL 12/31 21:25 17 [26] LAチャージャーズ v DENブロンコス [18] W 9-16
NFL 12/25 01:15 16 [16] NEペイトリオッツ v DENブロンコス [11] L 26-23
NFL 12/17 01:15 15 [2] DENブロンコス v DETライオンズ [1] L 17-42
NFL 12/10 21:25 14 [14] DENブロンコス v LAチャージャーズ [23] W 24-7
NFL 12/03 18:00 13 [9] DENブロンコス v HOUテキサンズ [8] L 17-22
NFL 11/26 21:05 12 [7] CLEブラウンズ v DENブロンコス [15] W 12-29
NFL 11/20 01:20 11 [13] MINバイキングス v DENブロンコス [19] W 20-21
NFL 11/14 01:15 10 [24] DENブロンコス v BUFビルズ [15] W 24-22
NFL 10/29 20:25 8 [1] KCチーフス v DENブロンコス [29] W 9-24
NFL 10/22 20:25 7 [11] GBパッカーズ v DENブロンコス [16] W 17-19
NFL 10/13 00:15 6 [29] DENブロンコス v KCチーフス [4] L 8-19

デンバー・ブロンコス(英語: Denver Broncos、略称: DEN)は、アメリカ合衆国コロラド州デンバーに本拠地をおくNFLチーム。AFC西地区に所属している。

愛称のブロンコスは西部の荒々しいイメージから。AFL時代にはプレーオフ出場経験がないが、1970年のNFLとAFLの統合の後、AFC西地区で優勝10回、スーパーボウルには6度出場しており、ミネソタ・バイキングス、バッファロー・ビルズと同様に最初の4回は敗れたが第32回スーパーボウルで初優勝を果たし、翌シーズンの第33回スーパーボウルも優勝している。

History

1982年まで

1959年8月14日、プロ野球・マイナーリーグのオーナーであるボブ・ホーサムによってチームは創設され1960年のAFL開幕から新興リーグの一員として参加した。ホーサムは当初、デンバーにNFLのエクスパンションチームを設立しようとしたが、シカゴ・ベアーズのジョージ・ハラスオーナーらNFLのオーナーの承認を得ることができなかった。1960年、ファンによる投票でブロンコスという愛称が決定された。

マイル・ハイ・スタジアム

チームはデンバー・ベアーズの本拠地だったベアーズ・スタジアム(後にマイル・ハイ・スタジアムと改称)を本拠地としてAFLのオリジナルメンバーとなった。ヘッドコーチにはフランク・フィルコック、エースQBにはフランク・トリプカがなった。同年9月9日に行われたボストン・ペイトリオッツ戦で13-10と初勝利をあげたがチームは4勝9敗1分で最初のシーズンを終えた。シーズン終了後ハウサムオーナーはチームをサンアントニオのシンジケートに売ろうとしたが1961年5月、ジェラルド・フィップスとカル・クンツら投資家グループがチームを購入した。

1961年シーズンを3勝11敗で終えるとチームはフィルコックスに代えてジャック・フォークナーを新ヘッドコーチとした。1962年シーズンはAFL時代を通して最高成績である7勝7敗で終えたがその後5シーズンチームは10敗以上を喫した。その間チームは4人のヘッドコーチ、6人の先発QBを起用する迷走ぶりであった。

1964年シーズン5試合を経過したところでフォークナーからマック・スピーディーにヘッドコーチが交代しチームは2勝11敗1分に終わった。1965年シーズンは4勝10敗、1966年シーズン、ヒューストン・オイラーズとの開幕戦に7-45と大敗、この試合でチームはファーストダウン更新わずか1回、パスで-7ヤード、トータルで26ヤードしかゲインすることができずに7-45で敗れた 。2試合が経過したところでスピーディーヘッドコーチは辞任、レイ・マラヴェシが残りゲームの指揮を執りチームは4勝10敗でシーズンを終えた。

1965年にオーナーの一部にチームをアトランタに移転させようとする動きがあったがアラン・フィップス、ジェラルド・フィップスが彼らの経営権、ベアーズ・スタジアムを買取りチームはデンバーに留まることになった。

1967年8月5日に行われたデトロイト・ライオンズとのプレシーズンゲームで13-7とAFLに所属するチームとして最初にNFLのチーム相手に勝利をあげた.。AFLでの10年間の成績は39勝97敗4分とリーグ最低でありAFLのオリジナルチーム中、唯一タイトルマッチに出場を果たせなかった。アメリカのプロフットボールチームとして最初にアフリカ系アメリカ人のプレースキッカーであるジーン・ミンゴを起用した。WRのライオネル・テイラーはシーズン100キャッチを記録した。またアフリカ系アメリカ人QBのマーリン・ブリスコウが入団した。チームの移転騒動があった翌シーズンのシーズンチケットはおよそ3倍の売り上げを記録した。

チームの最初のスーパースターは1967年に加入したフロイド・リトルである。

チーム創設後13年目の1973年に初めて勝ち越しでシーズンを終えた。AFLに所属したチームの中でブロンコスだけがプレーオフ出場を果たしていなかった。1965年にはフランチャイズを失うおそれもあったが地元のオーナーグループによってチームの再建が図られた。

レッド・ミラーがヘッドコーチに就任した1977年、その年加入したベテランQBのクレイグ・モートンとオレンジ・クラッシュ・ディフェンス(英語版)と呼ばれた守備の活躍で、プレーオフに初出場を果たし、第12回スーパーボウルまで勝ち上がったがダラス・カウボーイズに10-27で敗れた。

1979年9月23日のシアトル・シーホークス戦では10-34とリードされたところから、ノリス・ウィーズをリリーフしたクレイグ・モートンがハーベン・モーゼス、リック・アップチャーチにTDパスを通し、最後はロブ・ライトルが1ヤードのTDランをあげるなど、27点を連取して37-34で勝利した。この試合が、現在までのところ、ブロンコスの最多得点差からの逆転勝利となっている。

1981年にエドガー・カイザー・ジュニアがジェラルド・フィップスから3000万ドルでチームを買収した。

エルウェイの時代

1983年のNFLドラフトで全体1位でボルチモア・コルツに指名されたジョン・エルウェイがコルツに入団を拒否、ブロンコスはQBのマーク・ヘルマン、オフェンスラインのクリス・ヒントン、翌1984年のドラフト1巡目指名権と引き換えにエルウェイを獲得した。チームはそれまでの23年間で24人ものQBを起用するなど安定したQBを得ることができないでいた。

1984年にカイザーオーナーからパット・ボーレンにチームの所有権の60.8%を売却した。後にカイザーはボーレンに対して法廷闘争を行ったが敗訴している。

エルウェイはチームを5回スーパーボウルに出場(プレーヤーとしては最多記録)させたが、最初の3回は全て敗れてチームはミネソタ・バイキングスに続いてスーパーボウルで4連敗した史上2チーム目となった。エースQBのエルウェイとダン・リーブスヘッドコーチの不仲も深刻になっており、1994年シーズン終了と共にチームはエルウェイを選びリーブスはチームを去ることとなった。

1986年、チームは11勝5敗でAFC西地区優勝を果たし、プレーオフではニューイングランド・ペイトリオッツを22-17、クリーブランド・ブラウンズをオーバータイムの末、23-20で破り9年ぶりのスーパーボウル出場を果たした。ブラウンズとの試合では残り5分32秒、自陣2ヤードからの攻撃でザ・ドライブとして知られる98ヤードの同点ドライブでオーバータイムに持ち込んだ。ニューヨーク・ジャイアンツとの第21回スーパーボウルでは20-39で敗れた。

ストライキで短縮された1987年シーズン、AFCトップの10勝4敗1分でホームフィールドアドバンテージを獲得、プレーオフではヒューストン・オイラーズを34-10で破り、クリーブランド・ブラウンズとのAFCチャンピオンシップゲームでは前半21-3とリードしたが、反撃を許し31-31と同点にされ、勝ち越しTDで38-31とリードした。第4Q終盤に同点TDを狙ったアーネスト・バイナーに自陣2ヤード地点でファンブルを誘発し、38-33で逃げ切った。第22回スーパーボウルでは第1Qに10-0とリードしたが、第2Qに35失点(1クォーターでのスーパーボウル記録)するなど、10-42でワシントン・レッドスキンズに敗れた。

1988年は8勝8敗に終わりプレーオフを逃したが、1989年、開幕から12試合で10勝をあげ、11勝5敗をあげた。この年新人RBのボビー・ハンフリーが1,151ヤード、8TDをあげた。また新人キッカーのデビッド・トレドウェルはFGを81.8%成功、AFC3位の120得点をあげてプロボウルに選ばれた。プレーオフではピッツバーグ・スティーラーズを24-23、クリーブランド・ブラウンズを37-21で破った。第24回スーパーボウルではジョー・モンタナにスーパーボウル記録となる5TDパス、合計8TDを許し、10-55で敗れた。55失点、45点差での負けはそれぞれスーパーボウルワースト記録となった。

1991年シーズン、ヒューストン・オイラーズとのプレーオフでは第4Q、23-24と1点ビハインドで迎えた自陣2ヤードからのドライブで2回、第4ダウンに追い込まれたものの、残り16秒での逆転FGにより26-24で勝利、AFCチャンピオンシップゲームで、ハイパーオフェンスのバッファロー・ビルズと対戦した。この試合でディフェンスはビルズオフェンスにTDを許さなかったが、自陣深くからエルウェイの投げたスクリーンパスをカールトン・ベイリーにインターセプトされ、11ヤードのリターンTDを許し、7-10で敗れた。

1992年シーズン終了後、4年間で3度のスーパーボウル出場を果たしたダン・リーブスは解任され、ウェイド・フィリップスが後任となった。1994年シーズン終了後、フィリップスは解任され、1995年からマイク・シャナハンがヘッドコーチに就任した。

RBのテレル・デービスがチームに加入した後、チームは1996年には13勝3敗の成績をあげてAFC第1シードとなり、ホームアドバンテージを獲得したがプレーオフ初戦でチーム創設2年目のジャクソンビル・ジャガーズに苦杯をなめさせられた。

翌1997年チームはワイルドカードでプレーオフに出場、ジャクソンビル・ジャガーズを42-17、カンザスシティ・チーフスを14-10、ピッツバーグ・スティーラーズを24-21で破り、史上5チーム目のワイルドカードからのスーパーボウル出場チームとなり、第32回スーパーボウルで前年優勝のグリーンベイ・パッカーズと対戦した。下馬評はブロンコス不利だったものの31-24でパッカーズを破り初優勝を果たした。この試合エルウェイはパス22回中12本の成功、0TD、1INTと不調であった(ただしTDランを決めている)がテレル・デービスが157ヤードを走り、スーパーボウル記録の3TDをあげてMVPに選ばれた。

翌1998年もプレーオフでマイアミ・ドルフィンズを38-3、ニューヨーク・ジェッツを23-10で破り、2年連続スーパーボウル出場を果たし、長年ブロンコスのヘッドコーチをつとめエルウェイを指導していたダン・リーブス率いるアトランタ・ファルコンズとの対戦した。第33回スーパーボウルでは34-19で勝利し、スーパーボウル連覇を達成した。38歳のエルウェイはこの試合でパスで336ヤードを獲得、ロッド・スミスへの80ヤードPのTDパス、TDランも決めてMVPに選ばれた。エルウェイはこのシーズンで現役を引退した。

1999年から2011年

エルウェイの引退後の1999年から2002年まではマイアミ・ドルフィンズの元QB、ボブ・グリーシーの息子であるブライアン・グリーシーが先発QBとなり34勝30敗の成績をあげた。

2003年にチームはアリゾナ・カージナルスの先発QBだったジェイク・プラマーがグリーシーの代わりに先発QBとなった。チームはシーズン序盤は好成績をあげるが終盤失速するといった傾向があり2003年、2004年は5勝1敗と好スタートをきりながらいずれも10勝6敗で終えた。この年プラマーは自己ベストの4,089ヤード、27TDをあげた。2005年には13勝3敗でプレーオフ第2シードを獲得しスーパーボウル3連覇を目指すニューイングランド・ペイトリオッツを27-13と破りペイトリオッツのプレーオフ連勝記録を10で止めたがホームで行なわれたピッツバーグ・スティーラーズとのAFCチャンピオンシップゲームでプラマーが2インターセプトを喫するなど17-34で敗れて、スーパーボウル出場は果たせなかった。

スーパーボウルまであと一歩のところまでいったものの、2006年のドラフト1巡目でチームがQBのジェイ・カトラーを指名したことは周囲を驚かせた。2006年には守備陣が相手のオフェンスに開幕から5試合でわずか1TDしか許さず、7勝2敗と好成績をあげた。その後連敗するとシャナハンは先発QBをジェイク・プラマーからジェイ・カトラーに変えその後2勝3敗、シーズンを9勝7敗で終えた。2007年1月1日にはCBのダレント・ウィリアムスが射殺されて亡くなった。

2007年シーズンはロッド・スミスやトム・ネイレン、ベン・ハミルトンなど故障者が続出し7勝9敗に終わった。

2008年シーズンはシーズン最終節のサンディエゴ・チャージャーズとの地区優勝をかけた試合に敗れこれがシャナハンヘッドコーチの最後の試合となった。

2009年1月11日、ニューイングランド・ペイトリオッツのオフェンスコーディネーター、ジョシュ・マクダニエルズが新ヘッドコーチに就任した。2009年シーズン開幕前一時トレード要員となったジェイ・カトラーとチームの関係が悪化、トレードでシカゴ・ベアーズに放出しQBカイル・オートンやドラフト指名権とトレードした。この年チームは開幕から6連勝したが最後は8勝8敗で終わりプレーオフを逃した。

2010年には前年からチームに不満を持ったプロボウラーのブランドン・マーシャルをマイアミ・ドルフィンズにトレード、ドラフトでは大方の予想を裏切りQBティム・ティーボウを1巡目で指名した。そしてクリーブランド・ブラウンズとのトレードでブレイディ・クインを獲得した。3勝9敗となったところでマクダニエルズヘッドコーチは解任されてエリック・スタデスビルRBコーチが暫定ヘッドコーチとなった。その後2011年1月、前年までカロライナ・パンサーズでヘッドコーチを務めたジョン・フォックスがヘッドコーチに就任することとなった。

2011年、開幕から1勝4敗となったところでチームはカイル・オートンからティム・ティーボウに先発QBを交代、シーズン途中にオートンは放出された。ティーボウが先発してからチームは続く8試合で7勝1敗の成績をあげ、最後の3試合は連敗したものの、8勝8敗で地区優勝を果たした。ワイルドカードプレーオフでピッツバーグ・スティーラーズをオーバータイムの末、29-23で破ったが、ディビジョナルプレーオフでニューイングランド・ペイトリオッツに10-45で敗れた。

ペイトン・マニングの時代

2012年、コルツから解雇されたペイトン・マニングを獲得し昨年の先発QBティム・ティーボウをドラフト7巡指名権と共にニューヨーク・ジェッツのドラフト4巡、6巡と交換でトレードした。マニングは、この年カムバック賞に選ばれる活躍を見せた。

2013年、前年と同様に13勝3敗でAFCの第1シードを獲得した。プレーオフでは、サンディエゴ・チャージャーズとニューイングランド・ペイトリオッツを破り、AFCチャンピオンに輝いた。1997年、1998年の連覇以来のスーパーボウル出場となったが、シーホークスに8-43で完敗した。

2014年シーズンの開幕前に、1984年よりチームオーナーを務めていたパット・ボーレン(英語版)がアルツハイマー病との闘病のため、チーム執行権を手放すことが発表された。結果として、ジョー・エリス(英語版)とジョン・エルウェイがチームの執行権を握った。この年は、12勝4敗でAFC第2シードを獲得した。しかし、ディヴィジョナル・プレーオフでインディアナポリス・コルツに敗北し、直近4年間で3度目のディヴィジョナル・プレーオフ敗退となった。

2015年からはゲイリー・キュービアックがHCとなり、 第50回スーパーボウルを制覇。この試合でQBを務めたマニングは、翌月に引退を発表した。

2016年以降

2016年は控えQBであったブロック・オズワイラーがヒューストン・テキサンズへ移籍し、トレヴァー・シーミアンとこの年のドラフト1巡目に指名したパクストン・リンチが先発QBを務めたが地区3位に終わってプレーオフを逃し、シーズン終了後キュービアックの退任を発表した。後任のヘッドコーチには元マイアミ・ドルフィンズのディフェンシブ・コーディネーターであるバンス・ジョセフが就任した。

2017年、2018年も連続してプレーオフを逃し、2018年シーズン終了後HCのバンス・ジョセフは解雇された。後任はシカゴ・ベアーズのディフェンシブ・コーディネーターであるヴィック・ファンジオとなった。2018年のシーズン終了後、ボルティモア・レイブンズよりQBジョー・フラッコをトレードで獲得した。

2019年、ドラフト2巡目でQBドリュー・ロック(英語版)を指名した。この年フラッコは首を痛めて半数の試合の出場にとどまり、プレーオフを逃した。シーズン後、フラッコはリリースされた。この年、オーナーのパット・ボーレンが亡くなり、以後はオーナー不在が続いた。

2020年は新型コロナウイルス感染症に大きく影響を受け、2020年11月29日の対ニューオーリンズ・セインツ戦では、すべてのQBが陽性あるいは濃厚接触者となって出場不可能となってしまい、大学でQBの経験があるルーキーで練習生のWRケンドール・ヒントンを先発QBとして大敗を喫した。このシーズンも、プレーオフを逃した。2021年1月4日、ジョン・エルウェイは球団社長にはとどまりながら、GMを別に人物とすることを発表した。2021年1月13日、ミネソタ・バイキングスのGM補佐だったジョージ・パトンがGMとなった。2021年4月28日、指名権との交換でカロライナ・パンサーズからQBテディ・ブリッジウォーターを獲得した。

2021年も地区最下位となり6年連続してプレーオフを逃した。最終戦直後、3年間プレーオフを逃したファンジオがHC職から解雇された。後任にはグリーンベイ・パッカーズOCのナサニエル・ハケットが就任した。2022年2月1日、オーナー不在だったチームは公式に買い手を探すことになった。2022年3月8日、1位指名権2個、2位指名権2個、5位指名権2個、さらにドリュー・ロックなど3選手と引き換えに、ラッセル・ウィルソンと4位指名権1個をシアトル・シーホークスから得ると発表し、同月16日に正式決定した。

2022年、チームはS・ロブソン・ウォルトン率いるウォルトン=ペナー・ファミリー・グループにより買収された。グループはウォールマート創設者の子孫であるロブソン、その娘のキャリー、その夫であるグレッグ・ペナー、スターバックスの会長などを務めるメロディー・ホブソン、元国務長官のコンドリーザ・ライス、さらにはレーシング・ドライバーのルイス・ハミルトンからなる。2022年はウィルソンを迎えて期待されるも振るわず、第14週にカンザスシティ・チーフスに敗れて7年連続してプレーオフを逃した。第16週にはロサンゼルス・ラムズに敗れて地区最下位が決定した。翌日、HCのハケットが解任されてシニア・アシスタントのジェリー・ロズバーグが暫定HCとなった。2023年1月31日、ニューオーリンズ・セインツとの契約を残して辞職していたショーン・ペイトンを2023年ドラフトの1巡目指名権、2024年ドラフトの2巡目指名権、さらに将来の3巡目指名権と引き換えに獲得した。

2023年、ブロンコスはショーン・ペイトンをHCに迎えたが成績は振るわず、16週を終わったところでプレーオフ進出の望みはわずかなものとなった。ウィルソンの契約には怪我の保証条項が含まれていたため、のこり2試合にはウィルソンを先発させないことをチームが発表した。第17週の試合に勝利したもののプレーオフを逃した。シーズン後、ウィルソンはリリースされた。