Date | R | Home vs Away | - |
---|---|---|---|
10/15 20:47 | - | ウェバーカップ - トーマス・ラーセン vs Chris Via | View |
10/15 20:16 | - | ウェバーカップ - イェスパー・スヴェンソン vs Tom Daugherty | View |
10/15 19:47 | - | ウェバーカップ - Barrett/Teece vs Simonsen/Via | View |
10/15 19:17 | - | ウェバーカップ - Dom Barrett vs アントニー・サイモンセン | View |
10/15 18:46 | - | ウェバーカップ - Larsen/Teece vs Daugherty/Barnes | View |
10/15 18:15 | - | ウェバーカップ - Stu Williams vs アントニー・サイモンセン | View |
10/15 17:39 | - | ウェバーカップ - Svensson/Williams vs Troup/Barnes | View |
10/15 17:04 | - | ウェバーカップ - イェスパー・スヴェンソン vs カイル・トループ | View |
10/14 20:54 | - | ウェバーカップ - イェスパー・スヴェンソン vs クリス・バーンズ | View |
10/14 20:07 | - | ウェバーカップ - イェスパー・スヴェンソン vs カイル・トループ | View |
10/14 19:37 | - | ウェバーカップ - Richard Teece vs Chris Via | View |
10/14 19:03 | - | ウェバーカップ - Barrett/Larsen vs Daugherty/Via | View |
ボウリング(英: bowling)は、スポーツ競技のひとつ。さまざまな種類のボウリングがあるが、日本において単に「ボウリング」と言った場合、そのほとんどはテンピンボウリング(英: ten-pin bowling)のみを指すため、本項ではテンピンボウリングに限定して述べる。漢訳語「
テンピンボウリングは、ワールドゲームズ実施競技、アジア競技大会、国民体育大会の正式競技種目にもなっている。
日本語での表記法については、文化庁の国語施策における「外来語の表記」で、「長音符号の代わりに母音字を添えて書く慣用もある」として、その例に「ボウリング」を挙げている。「ボーリング」と表記した場合、掘削工事を指すことがあるので注意が必要。
もともとボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式であった。その歴史は古く、紀元前5000年頃には古代エジプトにおいて、木でできたボールとピンが墓から発掘されたことから、その頃からもボウリングに似たようなものがあったとされている。
しかし倒すピンの数やそれに応じた並べ方も場所や地域によってさまざまであった。それを中世ドイツの宗教革命家として知られるマルティン・ルターが、倒すピンを9本にし、並べ方もひし形にして、ボウリングの基本的なルールを統一したとされ、これが近代ボウリングのルールの原型になっていったと考えられている。9本という決められた数のピンを倒すという行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング(en:Nine-pin bowling)」(九柱戯)という一つのスポーツが派生し、宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えた。九柱戯はいまだにヨーロッパでは比較的メジャーな競技で、愛好者も多い。
17世紀になるとオランダ人が移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになった。しかしナインピン・ボウリングは賭け事に利用されたため1840年代に禁止される。そこで1本ピンを追加して三角形に並べ、ナインピンを禁じる法律を回避したテンピン・ボウリングが誕生することとなった。1895年にはアメリカ・ボウリング協会(American Bowling Congress)が発足される。1950年代初めに全自動式ピンスポッター(ピンを自動で並べる機械)の設置が始まることで急速に普及し、1952年には国際的な統括機関である国際柱技者連盟(Fédération Internationale des Quilleurs, 略称FIQ)が設立された。
日本では、文久元年5月15日(新暦換算:1861年6月22日)、長崎の大浦居留地(長崎居留地)にて、日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設された。1861年7月6日、英字新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」にインターナショナル・ボウリング・サロンの開設を告げる案内広告が掲載された。この広告に6月22日にインターナショナル・ボウリング・サロンが開設されたと掲載されていた。
これを記念して、日本ボウリング協議会が1971年に6月22日を『ボウリングの日』と定め、ボウリングの普及と振興のための企画などを実施するようになった。2002年からは日本ボウリング場協会がキャンペーンを実施している。
なお、幕末の志士・坂本龍馬が長崎に居留していたイギリス人貿易商グラバーと交流があったことから、後世、日本ボウリング資料館の開館を報じる『ボウリング・マガジン』において、「龍馬が日本人初のボウリングプレイヤーであるかもしれない」という願望を含んだ記事が掲載されたが、そのような事実があったという確たる証拠は一切無い[]。
1955年(昭和30年)の雑誌には「最近になって日本に入ってきたスポーツで、まだあまり大衆に親しまれていない」とあり、広く親しまれるようになったのは昭和40年代以降と思われる。スポーツ競技と定義されているが、手軽な集団レクリエーション・ゲームとしても浸透しており、あまり経験の無い人も参加しやすい性質を持つといえる。
1970年(昭和45年)前後には、須田開代子と中山律子に代表されるスター・プレイヤーの出現などがきっかけとなって、ボウリング場が数百メートルごとに立ち並ぶほどの一大ブームが到来した。日本国内のボウリング場は1972年(昭和47年)時点で3697箇所を数えた。
その手軽さとルールの簡明さゆえに、国民に馴染みの深いスポーツの一つであったが、ブームが過ぎると集客力も減衰して施設は激減していった。ボウリング場も1980年代からはアーケードゲームを併設し総合娯楽施設として構えていたことが多かった。遊びの多様化によるボウリング競技者人口の減少に加え、先のブーム時に建てられた施設の老朽化が進んで耐震基準を満たさなくなったことが大きく響いて、次々に廃業している。
日本国内のボウリング場は1972年(昭和47年)には最多の3697箇所を数えた。2016年(平成28年)時点で821箇所にまで減っている。2023年(令和5年)9月1日時点で、日本全国の施設数は661となっている。