イタリア セリエA | 05/04 16:00 | 35 | モンザ vs ラツィオ | - | View | |
イタリア セリエA | 05/12 10:30 | 36 | ラツィオ vs エンポリ | - | View | |
イタリア セリエA | 05/18 16:30 | 37 | インテル vs ラツィオ | - | View | |
イタリア セリエA | 05/25 16:30 | 38 | ラツィオ vs サッスオーロ | - | View |
イタリア セリエA | 04/27 18:45 | 34 | [7] ラツィオ v ヴェローナ [15] | W | 1-0 | |
コッパ・イタリア | 04/23 19:00 | 2 | ラツィオ v ユヴェントス | W | 2-1 | |
イタリア セリエA | 04/19 16:30 | 33 | [12] ジェノア v ラツィオ [7] | W | 0-1 | |
イタリア セリエA | 04/12 18:45 | 32 | [8] ラツィオ v サレルニターナ [20] | W | 4-1 | |
イタリア セリエA | 04/06 16:00 | 31 | [5] ローマ v ラツィオ [7] | L | 1-0 | |
コッパ・イタリア | 04/02 19:00 | 2 | ユヴェントス v ラツィオ | L | 2-0 | |
イタリア セリエA | 03/30 17:00 | 30 | [9] ラツィオ v ユヴェントス [3] | W | 1-0 | |
イタリア セリエA | 03/16 19:45 | 29 | [18] フロジノーネ v ラツィオ [11] | W | 2-3 | |
イタリア セリエA | 03/11 19:45 | 28 | [9] ラツィオ v ウディネーゼ [17] | L | 1-2 | |
UEFAチャンピオンズリーグ | 03/05 20:00 | 4 | [1] バイエルン・ミュンヘン v ラツィオ [2] | L | 3-0 | |
イタリア セリエA | 03/01 19:45 | 27 | [8] ラツィオ v ACミラン [3] | L | 0-1 | |
イタリア セリエA | 02/26 19:45 | 26 | [8] フィオレンティーナ v ラツィオ [7] | L | 2-1 |
Total | Home | Away | |
---|---|---|---|
Matches played | 57 | 28 | 29 |
Wins | 30 | 18 | 12 |
Draws | 6 | 5 | 1 |
Losses | 21 | 5 | 16 |
Goals for | 80 | 41 | 39 |
Goals against | 62 | 19 | 43 |
Clean sheets | 22 | 15 | 7 |
Failed to score | 14 | 5 | 9 |
ソチエタ・スポルティーヴァ・ラツィオ(Società Sportiva Lazio)は、イタリア・ラツィオ州ローマに拠点を置くプロサッカークラブ。
1900年に設立。前身は、イタリア人将校ルイジ・ビビアレッリが創立した「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(Società Podistica Lazio=ラツィオ競歩協会)」である。
1958年にコッパ・イタリアを獲得。これがクラブにとっての初タイトルであった。1973-74に初めてスクデットを獲得して以降は低迷し、セリエBとセリエAを行き来するようになった。また、成績面においてもライバルのローマに大きく水を開けられる状態であった。
こうした状況を打破するため、1992年に大手食品会社チリオのオーナー、セルジョ・クラニョッティが会長に就任すると、ジュゼッペ・シニョーリ、ポール・ガスコイン、アーロン・ヴィンターらを獲得した。
ディノ・ゾフが監督を務めて以降は上位に顔を出すようにはなったが、当時はクラニョッティ自身が多忙だったため、1994年には監督だったゾフにフロントを任せて、ゾフの後任にズデネク・ゼーマンを招聘、1994-95シーズンにはリーグ2位に入るなど、以降は優勝争いに加わるようになる。
1997年にスヴェン・ゴラン・エリクソンが監督に就任すると、ロベルト・マンチーニ、ヴラディミル・ユーゴヴィッチらサンプドリアの監督時代に指導した選手を獲得した一方、在籍中に3度リーグ得点王のタイトルを獲得したものの、不満分子となることがあったジュゼッペ・シニョーリをシーズン半ばに放出した。
1998年にイタリアのクラブでは初めて株式を上場し、これによって潤沢な資金を得たクラブは、1998-99シーズン開幕を前にシニシャ・ミハイロヴィチ、イバン・デ・ラ・ペーニャ、セルジオ・コンセイソン、デヤン・スタンコヴィッチ、クリスチャン・ヴィエリ、マルセロ・サラスといったスター選手を次々に獲得、終盤までリーグ首位を走っていたものの、ACミランに逆転され、2位に終わったが、UEFAカップウィナーズカップ優勝を果たした。翌1999-00シーズンには26年ぶりのリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇とクラブ史上初の2冠を達成するなど大きな成功を手にした。
しかし、サッカーバブル崩壊と共に、株式上場が裏目に出たことやチリオの業績悪化の影響を受けて多くの負債を抱えるようになった。これにより、多くのスター選手が移籍市場に売り出され、ついに、2002年には生え抜きでチームのキャプテンでもあったアレッサンドロ・ネスタをACミランに売り出さなければならないほどにまでクラブの財政は悪化した。その後、クラニョッティ一族は2003年にクラブ経営から退き、一族の顧問弁護士であったウーゴ・ロンゴが管財人として会長職に就任した。
クラニョッティによるラツィオの経営が悪化すると、2004年に清掃・警備会社等を経営する実業家クラウディオ・ロティートが買収に乗り出しクラブを買収。会長に就任する。
極度の財政難のため緊縮財政を実施しており、補強はきわめて限られた財政力で行なわれている。緊縮財政を反映して選手の給与額を制限し、大型補強もほとんど行なわないため、ラツィアーレからの反感を買うことも多いが、ラツィオが多額の負債を抱えながらも生き残っているのはロティートの辣腕に負うところが大きい。2005年には、1億4000万ユーロ(約195億円)と言われる負債の23年の分割払いで税務当局と合意するなど、優れた手腕を発揮した。
ロティートはルチアーノ・モッジとの親交が深かったが、その深さが仇となり、カルチョ・スキャンダルへの関与が疑われた。こうして2006年7月14日、セリエAの八百長問題に関連して「セリエB降格および勝ち点-7点からのリーグ戦開始」との判決が下される。7月25日、控訴審判決においてセリエA残留、2006-07シーズンの勝ち点-11でのシーズン開始と2005-06シーズンの勝ち点-30の判決が下された。後の判決によって、2006-07シーズンのペナルティが勝ち点-3に削減された。この事件についてはカルチョ・スキャンダルの項を参考のこと。
2006-07シーズン、クラブには重いペナルティが課されたが、デリオ・ロッシ監督の下、デルビー・ロマーノで歴史的大勝(ラツィオが3点差以上のスコアをつけて勝利したのは初めて)をするなどして最終的にシーズン3位でUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得するなど、再生は堅実に進められた。2008-09シーズンはセリエAでは10位に終わるものの、コッパ・イタリアを制し、続くイタリア・スーパーカップも獲得した。
2009-10シーズン、移籍希望を公言したゴラン・パンデフにロティートが激怒し、同様の訴えをしたクリスティアン・レデスマなど主力数選手などと共に戦力外扱いされる出来事があり、その影響などから成績不振が続いた。
2012-13シーズン、リーグ戦では7位に終わるも、コッパ・イタリアでは決勝でASローマとのローマ・ダービーを制し、4年ぶり6度目の優勝を果たした。
2015-16シーズンはヴェスレイ・フートや、数年後にFCバルセロナやマンチェスターユナイテッドなどから注目を集めることになるセルゲイ・ミリンコヴィッチ=サヴィッチらを獲得。しかし、UEFAチャンピオンズリーグのプレーオフではバイエル・レバークーゼンに敗れ、本選出場を逃す。怪我人の続出もあり成績が伸び悩む中、4月3日に監督のステファノ・ピオリが解任され、シモーネ・インザーギがシーズン終了まで暫定監督を務めることになった。しかし、最終的にはセリエAは8位に留まり、来シーズンの欧州への切符は逃すこととなった。
2016-17シーズンは混乱のスタートとなった。7月6日、マルセロ・ビエルサ監督の就任が公式発表された。しかし、約束した選手の補強が果たされなかったとの理由でわずか2日後に辞任し、後任に再びシモーネ・インザーギが就いた。その中でルイス・アルベルトやトマス・ストラコシャ、元セリエA得点王のチーロ・インモービレ等を獲得。シーズンが始まってみると、ミリンコヴィッチ=サヴィッチのブレイクやインモービレが23得点を挙げるなどの活躍もあり、セリエAは5位でフィニッシュ。ヨーロッパリーグの出場権を獲得した。