PITスティーラーズ

PITスティーラーズ

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NFL 173 NFLプレシーズン 26
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結果

NFL 01/15 21:30 171 [12] PITスティーラーズ v BUFビルズ [5] L 17-31
NFL 01/06 21:30 18 [10] PITスティーラーズ v BALレイブンズ [1] W 17-10
NFL 12/31 21:05 - [12] PITスティーラーズ v SEAシーホークス [16] W 30-23
NFL 12/23 21:30 16 [9] CINベンガルズ v PITスティーラーズ [15] W 11-34
NFL 12/16 21:30 - [10] PITスティーラーズ v INDコルツ [16] L 13-30
NFL 12/08 01:15 - [31] NEペイトリオッツ v PITスティーラーズ [10] L 21-18
NFL 12/03 18:00 - [15] ARZカージナルス v PITスティーラーズ [5] L 24-10
NFL 11/26 18:00 12 [11] PITスティーラーズ v CINベンガルズ [16] W 16-10
NFL 11/19 18:00 - [7] PITスティーラーズ v CLEブラウンズ [6] L 10-13
NFL 11/12 18:00 10 [26] GBパッカーズ v PITスティーラーズ [7] W 19-23
NFL 11/03 00:15 9 [19] TENタイタンズ v PITスティーラーズ [12] W 16-20
NFL 10/29 17:00 8 [4] JAXジャガーズ v PITスティーラーズ [8] L 20-10

ピッツバーグ・スティーラーズ(英語: Pittsburgh Steelers、略称: PIT)はNFLに加盟し、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグに本拠地をおくNFLチーム。AFC北地区に所属している。

1970年にNFLとAFLが統合した際AFCに組み入れられた旧NFLの3チーム(他の2チームはクリーブランド・ブラウンズ、ボルチモア・コルツ)のうちの1つである。愛称の由来はピッツバーグはかつて鉄鋼業が盛んだった事から“鉄の男達”から。スーパーボウル制覇6回は、全NFLチーム中最多(2018年シーズンにニューイングランド・ペイトリオッツが制覇し、最多記録に並んだ)であり、2度の連覇を達成した唯一のチームである。

QB テリー・ブラッドショー、RB フランコ・ハリス、WR リン・スワンの攻撃陣(1975年の公式戦では、ハリスとロッキー・ブライアーの2人が1000ヤード・ランを記録)に加え、DT ミーン・ジョー・グリーン、MLB ジャック・ランバート、OLB ジャック・ハム、DB メル・ブラント等による強力なディフェンス陣は「スティールカーテン」と呼ばれ相手チームに恐れられた。

History

チーム創設から1968年まで

NFLに現存するチームでは7番目に古い歴史を持っている(アリゾナ・カージナルス、グリーンベイ・パッカーズ、シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツ、デトロイト・ライオンズ、ワシントン・レッドスキンズ)。チームは1933年7月8日、フィラデルフィア・イーグルスと同時に、アート・ルーニーによって設立された。設立当初はMLBのピッツバーグ・パイレーツと同一名でNFLのイースタン・ディビジョンに所属した。1940年にチームはスティーラーズと改称した。1942年にチームは7勝4敗と初めて勝ち越し、ルーキーのビル・ダドリーはリーディングラッシャーとなった。翌1943年にダドリーや他の多くの選手が第二次世界大戦に従軍したため1943年にはフィラデルフィア・イーグルスと1944年にはシカゴ・カージナルスと共同チームを形成した。1946年にジャック・サザーランドがヘッドコーチとなり復帰したダドリーがラッシング、インターセプト、パントリターンでリーグトップの成績を残しMVPに選ばれる活躍を見せた。1947年には8勝4敗でディビジョンタイトルを獲得しプレーオフに初出場したがフィラデルフィア・イーグルスに0-21で敗れた。

サザーランドの次にヘッドコーチとなったジョン・ミケロセンは1948年から1951年の4シーズンで20勝26敗2分の成績に終わり、1952年にはジョー・バック(1935年から1936年にもヘッドコーチ)がヘッドコーチに復帰した。1954年にバックが健康上の理由で辞任し後任にはアシスタントコーチのウォルト・キースリング(1939年から1944年にもヘッドコーチ)が就任した。

1957年から1964年までの8シーズンはバディ・パーカーがヘッドコーチを務めた。この間の負け越しは3シーズンだけで1962年には9勝5敗でプレーオフに出場したがデトロイト・ライオンズに10-17で敗れた。

チャック・ノールの時代

1969年1月27日にチャック・ノールが37歳でヘッドコーチに就任すると、ドラフトで後にプロフットボール殿堂入りする選手を多く獲得した。彼が1969年にドラフトで最初に指名したのはDTのミーン・ジョー・グリーンだった。1969年は1勝13敗に終わったがそれによって1970年のドラフト全体1位指名権を得たチームはテリー・ブラッドショーを指名した。その年の3巡ではCBのメル・ブラント、1971年にはジャック・ハム、1972年にはRBのフランコ・ハリスを獲得した。

1970年にはチームにとって大きな出来事が2つあった。1つはAFLとの統合によって、AFC中地区に所属することになったこと、もう1つは本拠地をスリー・リバース・スタジアムに移転したことである。1972年には11勝3敗で地区優勝を果たし、地元で行われたオークランド・レイダースとのプレーオフでは、試合終了直前にハリスが行った「イマーキュレート・レセプション」と呼ばれる伝説的プレイ(詳細後述)により逆転勝利を収める(最終スコア13-7)。しかしAFC優勝戦ではパーフェクトシーズンを達成したマイアミ・ドルフィンズに17-21で敗れてスーパーボウル出場は果たせなかった。

1973年には10勝4敗でワイルドカードでプレーオフ出場を果たしたがオークランド・レイダースに14-33で敗れた。

1974年から1979年までチームは6年連続地区優勝を果たした。1974年のプレーオフではバッファロー・ビルズを32-14、オークランド・レイダースを24-13で破り第9回スーパーボウルに出場した。スティールカーテンと呼ばれたディフェンスがミネソタ・バイキングスの攻撃を完全に封じ16-6でスーパーボウル初制覇を果たした。1975年には11連勝を含み12勝2敗でシーズンを終え、プレーオフではボルチモア・コルツを28-10、オークランド・レイダースを16-10で破り第10回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを21-17で破りスーパーボウル史上、グリーンベイ・パッカーズ、マイアミ・ドルフィンズに次いで連覇を達成した3チーム目となった。

1976年は開幕から1勝4敗と苦しんだがその後9連勝して10勝4敗でシーズンを終えた。ボルチモア・コルツを40-14で破ったがフランコ・ハリス、ロッキー・ブライアーが負傷欠場したオークランド・レイダース戦を7-24で落とした。この年のレギュラーシーズン、リン・スワンが脳震盪を起こしたプレーについてレイダースのジョージ・アトキンソンを訴えた。1977年は9勝5敗で終えプレーオフ1回戦でデンバー・ブロンコスに21-34で敗れた。

1978年にはNFLトップの14勝2敗でシーズンを終え、デンバー・ブロンコスを33-10、ヒューストン・オイラーズ戦では9回のターンオーバーを奪い34-5で勝利、第13回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを35-31で破りスーパーボウルを3回優勝した最初のチームとなった。1979年には12勝4敗でシーズンを終え、プレーオフではマイアミ・ドルフィンズに34-14、ヒューストン・オイラーズを27-13で、ロサンゼルス・ラムズとの第14回スーパーボウルでは試合終盤まで相手QBヴィンス・フェラガモの活躍でリードを許したがジョン・ストールワースへの2本のTDパスで逆転31-19で勝利、4回目のスーパーボウルを制した。現在のところ、スーパーボウル連覇を2度達成した唯一のチームとなっている。

1980年は9勝7敗、1981年は8勝8敗でプレーオフ出場を逃した。ストライキでシーズンが短縮された1982年は6勝3敗でプレーオフに出場したがサンディエゴ・チャージャーズに28-31で敗れた。この試合の後、スリー・リバース・スタジアムでは10シーズンの間、プレーオフから遠ざかることとなった。1983年は10勝6敗で地区優勝を果たしたがプレーオフではロサンゼルス・レイダースに10-38で敗れた。1984年も2年連続地区優勝を果たしデンバー・ブロンコスを24-17で破りAFCチャンピオンシップゲームに進出したがこの年シーズンタッチダウンパス記録を更新したダン・マリーノのマイアミ・ドルフィンズに28-45で敗れた。

1985年には7勝9敗と14年ぶりに負け越し、1986年には6勝10敗に終わった。ストライキで短縮された1987年は最後の2試合を落とし8勝7敗でプレーオフを逃した。1988年にはここ19シーズンで最悪の5勝11敗に終わり、1989年は開幕2試合を0-51、10-41と大差で敗れたが若いチームはここから持ち直し9勝7敗でシーズンを終え、ワイルドカードプレーオフで26-23とヒューストン・オイラーズを破り、デンバー・ブロンコスとのディビジョナル・プレーオフは23-24とわずか1点差の好ゲームを演じた。1990年には9勝7敗でAFC中地区3チームが並んだが地区内成績が2勝4敗だったチームはプレーオフ出場を逃した。1991年を7勝9敗で終えた後、23シーズンに渡ってヘッドコーチを務めたチャック・ノールが辞任を発表し後任にはビル・カウアーが就任することとなった。

ビル・カウアーの時代

熱血漢のビル・カウアーの下でチームは彼が就任してから6年連続でプレーオフに進出した。この記録は過去にはポール・ブラウンがクリーブランド・ブラウンズ時代に達成しただけであった。カウアーがヘッドコーチを務めた15年間でチームは10回プレーオフに進出、Blitzburghと呼ばれたブリッツを多用した守備を武器に第30回スーパーボウルに出場したがダラス・カウボーイズに敗れた。

2004年シーズン守備でNFL1位。攻撃はラン中心で組み立てられ、新人QBのベン・ロスリスバーガーは数々の新人記録を打ち立てたがスーパーボウル出場を逃した。RBジェローム・ベティスはこの年で引退を決意していたがロスリスバーガーは自分がスーパーボウルに連れて行くのでもう1年プレーしてほしいとベティスに頼んだ。

2005年シーズンでは、チームはAFC第6シードながらプレーオフに出場、インディアナポリス・コルツ戦ではシーズン中ほとんどファンブルしたことのないベティスが試合終盤にファンブルし、相手に攻撃権が渡り大ピンチとなったがコルツのミスに助けられるなど勝ち上がり、第6シードのチームとしては初めてスーパーボウルに出場を果たした。第40回スーパーボウルではシアトル・シーホークスを破り26年ぶりに5度目となるスーパーボウル優勝を果たした。ベティスは故郷デトロイトで行われたこの試合で現役を引退した。

カウアーは2006年シーズン終了後、翌2007年1月7日に家族との時間を大切にしたいと辞任した。

マイク・トムリンの時代

後任のヘッドコーチはアート・ルーニー2世、ダン・ルーニー、GMのトニー・トルバートの3人の話し合いで数人の候補に絞られた。オフェンスコーディネーターのケン・ウィゼンハント、オフェンスラインコーチのラス・グリム、元オフェンスコーディネーターのチャン・ゲイリー、ミネソタ・バイキングスのディフェンスコーディネーターのマイク・トムリン、シカゴ・ベアーズのディフェンスコーディネーターのロン・リベラである。1月22日にマイク・トムリンが新ヘッドコーチに選ばれたことがチームから発表された。彼はスティーラーズの歴史上初のアフリカ系アメリカ人ヘッドコーチであった。

2008年度の第43回スーパーボウルでは残り35秒からサントニオ・ホームズへの逆転タッチダウンでアリゾナ・カージナルスを27-23で破り史上最多6度目の優勝を飾った。

スーパーボウル連覇を狙った2009年はトロイ・ポラマルの負傷などでチームはプレーオフ出場を逃した。この年ロスリスバーガーが脳震盪を起こした次の試合で欠場したがその際ハインズ・ウォードは不満をもらした。

2010年、エースQBのロスリスバーガーがNFLの行動規範に反する行いをしたとして、開幕から6試合(その後ロジャー・グッデルコミッショナーにより4試合に減らされた。)出場停止になることが決定された。そのため、チームはかつて控えQBを務めたバイロン・レフトウィッチと契約したが、故障のために欠場することになり、QBはデニス・ディクソン、チャーリー・バッチの2人でロスリスバーガーが復帰するまで開幕から3連勝し、3勝1敗で乗り切った。チームは12勝4敗でAFC第2シードでシーズンを終えた。ディビジョナルプレーオフでは31-24でボルチモア・レイブンズに勝利。AFCチャンピオンシップゲームでは、AFC第6シードながら第1シードのニューイングランド・ペイトリオッツを破ったニューヨーク・ジェッツと対戦して24-19で勝利し、第45回スーパーボウル出場を果たしたがグリーンベイ・パッカーズに25-31で敗れた。

2011年、ボルチモア・レイブンズと同じ12勝4敗をあげたが、直接対決で2敗したためワイルドカードでのプレーオフ出場となった。最終週に負傷したRBメンデンホールが欠場、この年チーム最多タックルをあげたライアン・クラークも鎌状赤血球形質の症状がかつて高地であるデンバーで悪化したことがあるため欠場したデンバー・ブロンコスとのワイルドカードプレーオフで、オーバータイムの末、23-29で敗れた。シーズン終了後、オフェンスコーディネーターのブルース・エリアンスが引退を表明した。

2013年11月28日のボルチモア・レイブンズ戦でジャコビー・ジョーンズのキックオフリターン中にマイク・トムリンヘッドコーチがフィールド上に侵入し、ジョーンズの進路妨害をした疑いにより、10万ドルの罰金処分を受けた。

2014年から三年連続してプレーオフ出場を果たし、うち2014年と2016年は地区優勝を果たしたが、いずれもスーパーボウル出場はならなかった。2017年もまた地区優勝を果たしたが、プレーオフ初戦でジャクソンビル・ジャガーズに敗れた。

2018年は最初の10試合を7勝2敗1分と好調に消化したものの、続く6試合で2勝4敗に終わりプレーオフ出場を逃した。2019年9月、第2週の試合でロスリスバーガーは右肘を痛め、手術の結果シーズン絶望となった。2年連続してプレーオフを逃した。

2020年は開幕から11連勝を果たし、最後の5試合は1勝4敗と失速したものの3年ぶりの地区優勝となった。プレーオフでは初戦でクリーブランド・ブラウンズに敗れた。

2021年1月21日、前ワシントン・フットボールチームのQBドウェイン・ハスキンズと契約した。ロスリスバーガーがシーズン後の引退を示唆する中、チームは地区二位でシーズンを終え、プレーオフに進出するも初戦でカンザスシティ・チーフスに敗れた。シーズン終了後、ロスリスバーガーが引退を発表した。さらにGMのケビン・コルバートが2022年のNFLドラフト後に退任することが発表された。後任にはコルバートの部下であったオマール・カーンが就任した。

2022年4月9日、QBのドウェイン・ハスキンズが交通事故で死亡した。この年のドラフト1巡目でQBケニー・ピケットを指名した。シーズン序盤はミッチェル・トゥルビスキーを先発QBとするも、5戦目以降はピケットを先発とした。最終戦までプレーオフの望みを残したが、地区3位でシーズンを終えプレーオフ進出はならなかった。

2023年、20シーズン連続で勝率を5割以上とした。最終週にワイルドカードでのプレーオフ進出を決めた。プレーオフ初戦でバッファロー・ビルズに敗れた。