スケジュール

Jリーグカップ 04/24 10:00 8 奈良クラブ vs サンフレッチェ広島 - View
J1リーグ 04/28 05:00 10 サンフレッチェ広島 vs 川崎フロンターレ - View
J1リーグ 05/03 05:00 11 アルビレックス新潟 vs サンフレッチェ広島 - View
J1リーグ 05/06 06:00 12 サンフレッチェ広島 vs 名古屋グランパス - View
J1リーグ 05/10 10:00 13 横浜F・マリノス vs サンフレッチェ広島 - View
J1リーグ 05/15 10:00 14 サンフレッチェ広島 vs 鹿島アントラーズ - View

結果

J1リーグ 04/20 05:00 9 [19] 北海道コンサドーレ札幌 v サンフレッチェ広島 [2] D 1-1
J1リーグ 04/13 05:00 8 [12] アビスパ福岡 v サンフレッチェ広島 [2] D 1-1
J1リーグ 04/07 05:00 7 [2] サンフレッチェ広島 v 湘南ベルマーレ [18] W 2-0
J1リーグ 04/03 10:00 6 [1] FC町田ゼルビア v サンフレッチェ広島 [5] W 1-2
J1リーグ 03/30 04:00 5 [2] サンフレッチェ広島 v ガンバ大阪 [5] D 1-1
J1リーグ 03/16 05:00 4 [4] ヴィッセル神戸 v サンフレッチェ広島 [1] D 0-0
J1リーグ 03/09 06:00 3 [2] サンフレッチェ広島 v サガン鳥栖 [7] W 4-0
J1リーグ 03/02 06:00 2 [10] FC東京 v サンフレッチェ広島 [3] D 1-1
J1リーグ 02/23 05:00 1 [14] サンフレッチェ広島 v 浦和レッズ [18] W 2-0
ワールドクラブ親善試合 02/10 05:00 - サンフレッチェ広島 v ガンバ大阪 L 1-2
J1リーグ 12/03 05:00 34 [6] アビスパ福岡 v サンフレッチェ広島 [3] W 0-1
J1リーグ 11/25 05:00 33 [4] サンフレッチェ広島 v ガンバ大阪 [15] W 3-0

Stats

 TotalHomeAway
Matches played 40 19 21
Wins 17 12 5
Draws 10 4 6
Losses 13 3 10
Goals for 52 38 14
Goals against 35 14 21
Clean sheets 14 8 6
Failed to score 12 2 10

サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー、英: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、日本の広島県広島市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称はサンフレッチェ広島(サンフレッチェひろしま)。

History

前史(マツダ時代)

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。

低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた(サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。

Jリーグ創設前夜

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった。

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた(チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力・広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階 に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため、地元企業を中心に出資団体を募った。

また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧や北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターやサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる

1992年 - 1994年(バクスター時代)

バクスター

1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェック、パベル・チェルニー、盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある。

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった。

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下 していった。その結果、JリーグチャンピオンシップではV川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。

バクスターは得点力アップのためミカエル・ラウドルップ補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた。

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)

ヤンセン

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦 でオランダ人のビム・ヤンセンが監督に就任した。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラ、サントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視 し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った。

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義・笛真人や森秀昭・久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した。

1997年 - 2000年(トムソン時代)

1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年、バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する。

同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった。

そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ、その中で家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税・沢田謙太郎や伊藤哲也・吉田康弘・山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇・服部公太や高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」 と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

2001年(ヴァレリー時代)

ヴァレリー

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる。

その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシア人ヴァレリー・ニポムニシ を監督招聘する。当時Jリーグで唯一3トップを採用し、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。

残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任した。この際、ヴァレリーが新監督に推薦 したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。

2002年(ガジエフ・木村時代)

ガジエフ

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した。戦術が定まらずチームはバラバラのまま、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由 に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任した。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治がゼネラルマネージャーに就任した。

2003年 - 2006年(小野 / 小野・ペトロヴィッチ時代)

小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、佐藤寿人・茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男や戸田和幸・盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオやリカルド・ベット・ジニーニョ・ウェズレイのブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース から髙萩洋次郎・前田俊介・髙柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。

2003年(J2)

2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)。

2004年

J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう。

2005年

前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている。

同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年
画像外部リンク
ペトロヴィッチ
en:file:Sanfrecce hiroshima-20100620-michael-petrovic-1.jpg

より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。

後任に、GKコーチの望月一頼がドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。

新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘と柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。

2007年 - 2011年(ペトロヴィッチ時代)

2007年

前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。

これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した が終盤の9連勝で浦和を抜いて逆転優勝を果たした鹿島に0-2で敗れて準優勝。C大阪(1994年、2001年、2003年)を抜いて天皇杯4連敗となった。

クラブはJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。

2010年ナビスコカップ決勝時のサンフレッチェ広島サポーターによるコレオグラフィー
2008年(J2)

ウェズレイ、駒野友一は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、横浜FCを退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。

3月のゼロックス・スーパーカップで、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。

2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・髙萩洋次郎・森脇良太・佐藤昭大・槙野智章・中林洋次など若手の台頭 や、「ミシャ式」と称される独特のサッカースタイルを確立するきっかけとなった。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作・水本裕貴・李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン(中島浩司・山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチやダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。

2009年

J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった。

2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や天皇杯で早期敗退し、初めて進んだ2010Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝でも逆転しながら終了間際に前田遼一に決められて延長戦の末3-5で敗れて準優勝。Jリーグカップと天皇杯を合わせての決勝戦で5連敗となり、2022年現在清水(2005年の天皇杯、2008Jリーグヤマザキナビスコカップ、2010年の天皇杯、2012Jリーグヤマザキナビスコカップ)を抜いて最長。肝心なところで勝負弱さが露呈した。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。

経営改革

2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった。

2012年5月、すべての手続が完了した。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている。

減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した。

2012年 - 2017年(森保 / 森保・ヨンソン時代)

2012年基本フォーメーション
2012年

ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で森保一の名前が挙がることになった。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく。

2012年11月24日、第33節のC大阪戦に勝利し、1試合を残して クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年の柏に続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、オリジナル10の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 FIFAクラブワールドカップ(CWC)は、初戦でオークランド・シティに勝利。準々決勝でアルアハリに敗退したが、5位決定戦で蔚山現代FCに勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)でFC今治(四国リーグ)に1-2で敗れた。

2013年

J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断時点では、首位大宮と勝点差8、ACL圏内となる3位の横浜FMとは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節名古屋戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した浦和に抜かれ再び3位に降格。第33節湘南戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつカシマスタジアムでのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった鹿島 に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが川崎に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った。

AFCチャンピオンズリーグでは、怪我人が多く出たのも重なりJリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には2006年のACLの東京ヴェルディ1969以来2チーム目)のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いた。

同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。

2014年

2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、仙台から林卓人が10年ぶりの復帰となったほか、甲府より柏好文が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、徳島より柴崎晃誠を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げるゼロックススーパーカップでは2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。史上2チーム目の3連覇をかけたリーグ戦では29失点だった昨シーズンから37に増加し、リーグ戦3連覇が消えたばかりか、ACL出場圏も獲得出来ず8位に終わった。特に、関東でのアウェーでの試合は1勝も出来ずに終わった。2014年のAFCチャンピオンズリーグでは、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・FCソウルをホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時小野伸二が所属していたウェスタン・シドニーと対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦はゴールデンウィークにかけての11連戦の10戦目だったのに加え、12時間にも及ぶ長距離移動も重なって満足に練習が出来なかった影響からか第1戦のアドバンテージを生かせず0-2で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯はG大阪に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇 を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、ナビスコカップ通算最多得点記録の更新がかかる佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服出来ないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦9連敗) となってしまい、3大タイトルでは3年ぶりの無冠に終わってしまった。

2015年Jリーグ基本フォーメーション
監督 森保一
千葉和彦
水本裕貴
ミキッチ
青山敏弘
森崎和幸
(清水航平)
佐藤寿人
2015年

2015年2月に小谷野薫が広島市長選挙出馬の為、社長の座を退いた。後任には前強化部長の織田秀和が就いた。髙萩が海外挑戦のため退団し、石原は浦和に移籍、シャドーのレギュラー2選手を同時に失った。その後釜に徳島からドウグラス、2009年オフにもオファーを出していた京都の工藤浩平を獲得。このうち工藤はリーグ戦僅か6分の出場に留まり、6月に松本山雅FCに移籍。ドウグラスとボランチからコンバートさせた柴崎が穴を埋めて余りある活躍を見せることになる。1stステージは浦和に独走を許しながら3位につける。2ndステージに入ると第1節、第2節をそれぞれ4得点、6得点と攻撃陣が爆発し2連勝、続く第3節ではアウェーで浦和に逆転勝利を収め、このシーズン初めて年間勝点首位に浮上。その後は浦和とのマッチレースの様相を呈したが、森保就任からの武器だった持ち前の守備力に攻撃力が加わり、1stステージ同様に大崩れする事なく、最終節で湘南に勝利し2ndステージ優勝と年間勝点1位が確定。年間の勝ち点74は現行の制度下での最高記録。またアウェーで13勝3分1敗の勝ち点42を挙げいずれも現行の制度で新記録 となった。

Jリーグチャンピオンシップは年間勝点1位のため準決勝をシードされ、勝ち上がった年間3位のG大阪と対戦。敵地で行われた第1戦は後半アディショナルタイムに2得点生まれ、3-2で劇的な逆転勝ち。満員のホームで迎えた第2戦は先制されながら浅野の同点ゴールで1-1、2戦合計4-3で年間優勝を勝ち取った。これで森保監督は4年間で3度のリーグ優勝を果たした。佐藤が2ndステージ最終節でJ1通算157ゴール目を記録し中山雅史と並びJ1通算最多得点保持者となったのを筆頭に、ドウグラスは得点ランキング2位の21ゴール(チームのJ1におけるシーズン最多得点記録)、浅野拓磨は先発出場の機会こそ無かったがリーグ戦初を含む8ゴールを決めスーパーサブに定着、ベストヤングプレーヤー賞を受賞した。Jリーグアウォーズでは青山がMVPに輝き、ベストイレブンには青山に塩谷、ドウグラスを加えた3人が選出された。森保も3度目の最優秀監督賞を受賞。また、優秀選手賞を7人が受賞している。青山は1stステージ最終節鳥栖戦のゴールで年間最優秀ゴールも受賞。チームとしても4年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞し優勝に花を添えた。

開催国王者枠として3年ぶりに出場したFIFAクラブワールドカップ2015では、オークランド・シティFC、TPマゼンベを破り、準決勝で南米王者であるリーベル・プレートに善戦したものの0-1で敗退。3位決定戦でアジア王者の広州恒大に逆転勝ちし、2007年の浦和、2008年のG大阪に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たした。その他のカップ戦では、サブメンバー主体で臨んだナビスコカップは予選リーグ敗退。天皇杯ではベスト4まで勝ち進むが、前年も天皇杯のベスト16で敗れたG大阪に準決勝で敗北した。

2016年

2016年は新たに森保監督と2017年シーズンまでの2年契約で合意し森保体制5年目。山岸智らが契約満了にて退団、またドウグラスの慰留に失敗し完全移籍・期限付き移籍延長のいずれにも合意することができず、チームトップスコアラーでリーグ優勝とCWC3位の立役者を失う事になった。ドウグラスの代役として清水のピーター・ウタカ(期限付き移籍)や京都の宮吉拓実、山形のキム・ボムヨン(いずれも完全移籍)らを補強し、新卒では四日市中央工業高から森島司、ユースから長沼洋一が入団。

シーズン初戦となったゼロックススーパーカップでは天皇杯優勝のG大阪と3年間で10回目の対戦、佐藤寿人や新加入のウタカの得点でタイトルを手にした。しかし、リーグ戦では佐々木が1stステージ第4節で横山知伸に危険なタックルを受け右膝前十字靭帯を断裂、これを皮切りに怪我人が続出する苦しい台所事情を強いられ、ウタカが得点王争いのトップに立つなどの活躍はあったが1stステージを4位で折り返す。2ndステージではアーセナルへの海外挑戦を決めた浅野らの退団やアンデルソン・ロペス・野上結貴の加入など多少の選手の入れ替わりがあったものの、勝負所第9節からの7試合で5敗(特に12節の浦和戦から3連敗)を喫するなど失速。2ndステージ10位・年間勝ち点6位と前半戦から順位を落とす結果に終わった。Jリーグアウォーズではウタカが19得点で得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブン、チームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。

リーグ戦より一足先に開幕したACLは山東魯能、FCソウル、ブリーラム・ユナイテッドと同組となる。過去の参戦シーズン同様若手中心の消極的な選手起用が目立ち、最終戦を残してグループステージ敗退が決定。チームのACL観客動員数が歴代最多動員を記録した最終戦のFCソウルこそ2-1で勝利し意地は見せたが、それ以外の試合は観客動員数が10000人を割り込む等 クラブ・サポーター双方共にACLへの関心の薄さが改めて浮き彫りとなった。また、カップ戦は、ルヴァンカップ、天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。

2017年

森保体制6年目。前シーズンをもって森崎浩司が引退、佐藤・ウタカらが退団した一方、フェリペ・シウバ、工藤壮人らが完全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。

攻撃陣の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチームは7月に森保の退任を発表、前任ペトロヴィッチと並ぶ長期間の森保体制は5年半で終了した。数試合を横内昭展の指揮で戦ったのち新たに監督に就任したクラブOBのヤン・ヨンソンの下、パトリックや丹羽大輝を補強し、ペトロビッチ・森保体制下で継続してきた3-4-2-1のフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム最終戦となった第33節FC東京戦で新加入の稲垣祥の勝ち越しゴールで残留を確定させた。最終順位は15位。ヨンソンは次年度に続投することなく、清水で監督に就任してチームを去った。

2018年 - 2021年(城福 / 城福・沢田時代)

2018年

日本サッカー協会に戻っていた城福浩を新たな監督に迎える。開幕から3連勝、さらに6戦負けなし、しかもその勝利を挙げたチームの中には前年ACLに出場した鹿島、浦和、川崎という上位進出も期待出来るチームも含めて9試合で8勝1分で首位を独走。第10節にFC東京に敗れて初黒星を喫したが、第11節から4連勝となるも、ワールドカップによるリーグ戦中断前最後の第15節に2敗目を喫するも、2位との勝点差は9であった。だが再開後にチーム状態は暗転。第26節以降全く勝てず、首位陥落した第28節から6連敗、最終6試合勝ちなし(うち4試合が完封負け)と深刻な得点力不足に悩まされ、川崎に逆転され2位でシーズン終了。

2019年

2月のACLプレーオフを勝利すると、グループステージを久しぶりに突破してベスト16に進出。アウェーゴールの差で鹿島に敗退した。最終的に6位に終わったリーグ戦でも若手が台頭し、特に大迫敬介や森島司、松本泰志は離脱した林、柴崎、青山の穴を埋め、ACLで出色のパフォーマンスを見せた荒木隼人は水本・吉野からレギュラーの座を奪い、前年復帰した川辺駿はリーグ戦全試合に出場した。新戦力ではドウグラス・ヴィエイラがポストプレーを武器に1トップに定着、ハイネルも後半戦は不動の右ウィングバックとして活躍した。一方前年終盤から不振を極めていたパトリックは、この年背番号10を背負うも新戦術に順応できずG大阪に出戻り。少なくなった初優勝メンバーの水本も、夏の移籍で松本に新天地を求めた。また、再びチーム伝統の3-6-1システムに取り組んだこともあり、前年右SBを担った和田拓也が早々に構想外となり横浜FMへ移籍した。水本と入れ替わりで松本から加入したレアンドロ・ペレイラは怪我で実働10試合に満たなかったが、出場した試合では貴重な得点源として得点力不足の解消に一役買った。

総じてチームの若返りに成功したが、チームの最多得点者が柏の8点という状況から見て取れるように特にゴールを奪えるフォワード不足は本年も解消されることは無かった。

2020年

城福体制3年目、櫛引一紀を大宮アルディージャから、永井龍を松本山雅FCから獲得するが補強効果は限定的で、加入2年目を迎えたレアンドロ・ペレイラがリーグ3位の15得点を挙げチームを牽引。新型コロナウイルス感染症の影響を受け変則日程・J2降格無しのレギュレーションにて行われたリーグ戦・ルヴァンカップ共に好調な滑り出しを見せるも、終盤にかけて勝ちきれない引き分け続きの試合が増え、結果的にリーグ戦を中位の8位で終えた。過密日程の中で若手の起用が目立ったシーズンでもあり、特別指定選手としてプレーした藤井智也はリーグ戦15試合に出場した。

2021年

城福体制4年目。前年末にペレイラとの契約に合意できず(その後G大阪へ)この年も外国人ストライカーの慰留に失敗。新たな得点源として横浜FMでリーグ戦22試合13得点とインパクトを残していたジュニオール・サントスを完全移籍で獲得 した。

過去3シーズンと異なり「この選手たちと違う景色が見たい」という城福の理想とするサッカーを体現するべく、この年はシーズン途中から4バックを取り入れるなどの改革を進めた が、新フォーメーションの1トップを担うドウグラス・ヴィエイラが故障、チームは第8節の4位を最高点に中位に定着。川辺がグラスホッパーへ引き抜かれて以降は攻守に精彩を欠き、この年降格する仙台にシーズン敗北を喫した第33節を以て城福の退任が決定(試合に敗れたもののJ1残留も確定)。残る5試合は沢田謙太郎ヘッドコーチが監督職を引き継いだが状態は上向くことなく、リーグ11位でフィニッシュ。また、天皇杯初戦(2回戦から登場)では本職ではない選手をDFに置くなど極端なターンオーバーを行った挙句、関西サッカーリーグ1部に所属するおこしやす京都ACに1-5で大敗するなど、リーグ戦順位以上に屈辱的な1年を過ごした。

2022年 - (スキッベ時代)

2022年

ミヒャエル・スキッベを新監督に、前岡山監督の有馬賢二や前川崎GKコーチの菊池新吉らを新コーチに迎えるなど、スタッフを大きく入れ替えて開幕を迎える。

コロナ禍による日本への入国制限でスキッベの来日が遅れ、迫井深也ヘッドコーチの指揮した序盤こそ苦戦したものの、下部組織出身の満田誠、野津田岳人、川村拓夢、過去にスキッベの下でプレーしたナッシム・ベン・カリファらが台頭。リーグ第28節で2019年以来の5連勝を飾り、暫定ながら首位に立つなど上位争いを演じた。終盤は川崎との直接対決に敗れて以降は1勝2敗2分と失速したものの、リーグ戦ではACLプレーオフ圏内となる3位でフィニッシュした

天皇杯は、ホンダロックSC、横浜FC、ザスパクサツ群馬、C大阪、京都を下し、2013年以来9大会ぶりの決勝進出を果たした。ヴァンフォーレ甲府との決勝戦では延長後半・PK戦で2度のPK失敗を喫し敗戦。これで天皇杯決勝は東洋工業時代を含めて9連敗(Jリーグ発足後だけでも6連敗)となってしまった。

ルヴァンカップは名古屋、清水、徳島と同居するグループBを4勝2敗で首位通過。プレーオフで札幌に勝利し3年ぶりの決勝トーナメント進出。準々決勝で横浜FM、準決勝で福岡を破り、2014年大会以来8年ぶり、2022年シーズンでは通算4回目の対戦となるC大阪が待つ決勝に駒を進めた。優勝を逃した天皇杯決勝の翌週に行われた決勝では広島ユース出身のC大阪加藤陸次樹に先制点を奪われるも、夏の補強で加入したピエロス・ソティリウが途中出場から試合終了間際に2ゴールを挙げ、逆転勝利で悲願のルヴァンカップ初優勝を果たした。

2023年

第10節終了時点では2位になったが、怪我人の続出や得点力不足に喘ぎ、勝ちを重ねられず徐々に順位が低下。更に夏の移籍で森島司が退団するが、加藤陸次樹がユース卒業以来の復帰を果たしすぐに先発メンバーに定着、マルコス・ジュニオールも稼働は短時間ながら卓越した攻撃力を発揮して穴を埋める。怪我人の復帰した後半戦は持ち直し、2年連続で3位の成績を収めた。なお、J1・33節のG大阪戦がエディオンスタジアム広島での最終公式戦となり、3-0の勝利で華を添えた。同年限りで林卓人が引退(前述G大阪戦に途中出場)、2002年よりスカウト・2015年より強化部長を務めた足立修が公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りにより退任した。


サンフレッチェ広島は、広島県広島市安佐南区に本拠地を置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。J1リーグ通算3回、Jリーグカップ通算1回、スーパーカップ通算1回、天皇杯全日本サッカー選手権大会通算2回、AFCチャンピオンズリーグ通算1回優勝。

サンフレッチェ広島は、1938年に東洋工業サッカー部として創部。1965年に日本サッカーリーグ(JSL)に加盟し、1968年にはJSL1部初優勝を果たした。1970年には天皇杯全日本サッカー選手権大会で初優勝を飾った。

1992年にJリーグが開幕すると、サンフレッチェ広島はオリジナル10のひとつとして参加。1994年にはJリーグ初優勝を果たした。その後も、1995年、2012年、2013年、2015年にJリーグ優勝を果たしている。

国際舞台でも、サンフレッチェ広島は活躍している。1969年には、アジアクラブ選手権で準優勝を果たした。2012年には、AFCチャンピオンズリーグで初優勝を果たした。

サンフレッチェ広島のホームスタジアムは、エディオンスタジアム広島である。収容人数は50,000人で、Jリーグで3番目に大きいスタジアムである。

サンフレッチェ広島のマスコットは、サンチェ。サンチェは、広島県の特産である牡蠣をモチーフにしたキャラクターである。