ベルギー ファーストディビジョンA | 04/28 11:30 | 36 | ゲンク vs クラブブルージュ | - | View | |
UEFAカンファレンスリーグ | 05/02 19:00 | 2 | フィオレンティーナ vs クラブブルージュ | - | View | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 05/05 11:30 | 37 | アントワープ vs クラブブルージュ | - | View | |
UEFAカンファレンスリーグ | 05/08 16:45 | 2 | クラブブルージュ vs フィオレンティーナ | - | View | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 05/13 18:30 | 38 | クラブブルージュ vs ウニオン・サン | - | View | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 05/19 16:30 | 39 | アンデルヒト vs クラブブルージュ | - | View |
ベルギー ファーストディビジョンA | 04/24 18:30 | 35 | [2] クラブブルージュ v ゲンク [4] | W | 4-0 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 04/21 16:30 | 34 | [2] ウニオン・サン v クラブブルージュ [4] | W | 1-2 | |
UEFAカンファレンスリーグ | 04/18 19:00 | 3 | PAOKサロニカ v クラブブルージュ | W | 0-2 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 04/14 11:30 | 33 | [4] クラブブルージュ v アントワープ [6] | W | 3-0 | |
UEFAカンファレンスリーグ | 04/11 19:00 | 3 | クラブブルージュ v PAOKサロニカ | W | 1-0 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 04/07 16:30 | 32 | [5] クラブブルージュ v アンデルヒト [1] | W | 3-1 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 04/01 11:30 | 31 | [5] サークルブルージュ v クラブブルージュ [4] | D | 1-1 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 03/17 12:30 | 30 | [9] シント v クラブブルージュ [3] | L | 2-1 | |
UEFAカンファレンスリーグ | 03/14 20:00 | 4 | クラブブルージュ v モルデ | W | 3-0 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 03/10 15:00 | 29 | [4] クラブブルージュ v OHルーヴェン [13] | W | 3-1 | |
UEFAカンファレンスリーグ | 03/07 17:45 | 4 | モルデ v クラブブルージュ | L | 2-1 | |
ベルギー ファーストディビジョンA | 03/03 12:30 | 28 | [6] ゲンク v クラブブルージュ [3] | W | 0-3 |
Total | Home | Away | |
---|---|---|---|
Matches played | 66 | 33 | 33 |
Wins | 37 | 20 | 17 |
Draws | 12 | 8 | 4 |
Losses | 17 | 5 | 12 |
Goals for | 139 | 75 | 64 |
Goals against | 64 | 29 | 35 |
Clean sheets | 23 | 13 | 10 |
Failed to score | 7 | 2 | 5 |
クラブ・ブルッヘ(オランダ語: Club Brugge Koninklijke Voetbalvereniging、オランダ語発音: [klʏˈbrʏɣə ˌkoːnɪŋkləkə ˈvudbɑlvəreːnəɣɪŋ]) は、ベルギー・ブルッヘに本拠地を置くサッカークラブである。ブルッヘはオランダ語圏のフランデレン地域に位置するが、フランス語読みでクラブ・ブリュージュと呼ばれることもある。RSCアンデルレヒト(ブリュッセル首都圏地域)、スタンダール・リエージュ(ワロン地域)と並んでベルギーを代表する強豪クラブである。
国内大会のみならず、国際舞台でも大きな成功を収めており、欧州カップ戦の決勝に2回、さらに準決勝に2回到達している。UEFAチャンピオンズカップの決勝に進出したことがあるベルギー唯一のクラブである。1977-78シーズンの同大会で決勝に進出したが、リヴァプールFC(イングランド)に敗れて準優勝に終わった。1975-76シーズンのUEFAカップ決勝でもやはりリヴァプールに敗れている。
1890年、「Broeders Xaverianen」というカトリック学校と「Koninklijk Atheneum」という一般学校の卒業生によってブルフスヘFC (Brugsche FC) が形作られ、1891年11月13日が公式な設立日となった。「Mens sana in corpore sano (健全なる精神は健全なる身体に宿る)」をクラブのモットーとして採用した。1892年には公式に役員が任命されたが、1894年にはブルフスヘFCの一部のメンバーが離反してFCブルジョワ (FC Brugeois) を設立した。ブルフスヘFCもFCブルジョワも深刻な財政難にあったため、1895年にはブルフスヘFCのメンバーが第3のクラブとしてヴラームスフFC (Vlaamsche FC) も設立している。FCブルジョワは1895年に開始されたベルギー・ファーストディビジョン(1部)に参加して1895-96シーズンを戦ったが、財政難を理由に1シーズン限りで脱退した。1897年、FCブルジョワがブルフスヘFCに合流する形で合併したが、クラブ名はFCブルジョワが採用された。1899年にはヴラームスフFCがラピドFCと合併してサークル・ブルッヘとなり、今日におけるブルッヘの2大クラブが成立した。
1910-11シーズンのファーストディビジョンではライバルのCSブルジョワに勝ち点1差の2位だった。1912年には市南西部のトルハウツェステーンにある新グラウンドに移転し、9年間の賃貸契約(年額1,760ベルギーフラン)を結んだ。1913-14シーズン、FCブルジョワはベルギー・カップの決勝に進出したが、ユニオンSGに1-2で敗れて準優勝に終わった。リーグ戦では5回も2位を経験していたが、ファーストディビジョンで初優勝を飾ったのは第一次世界大戦後初のシーズンとなった1919-20シーズンだった。この時代にはハルレス・カンビールやトルテン・フティンクなどが活躍し、ふたりはベルギー代表にも選出されている。1920年にはグラウンドの賃貸契約が終了したため、Albert Dyserynck新会長は40,000ベルギーフランでデ・クロッケ を購入する決定を下した。1926年にはベルギーサッカー協会がクラブの登録制度を開始し、登録番号3番を得てロイヤルFCブルジョワ (Royal Football Club Brugeois) に改名した。1928年には初めて2部リーグに降格し、1930年、Dyserynck会長はクラブを非営利団体に変更したが、1931年には自動車事故で死去。生前の功績が称えられ、スタジアム名がAlbert Dyserynck Stadionに変更されたほか、メイン入場口近くに銅像が建てられた。1930年代にはロヘル・ヴァンホーヴェなどがプレーし、ヴァンホーヴェはベルギー代表として2キャップを記録した。
1957年にルーマニア人のノルベルト・ホフリング監督が就任すると転機を迎え、1959年にファーストディビジョンに昇格してからは一度も2部リーグ以下への降格を経験していない。1967-68シーズンのベルギーカップでは、決勝でRベールスホットACを1-1 (PK 7-6) で下して初優勝を飾った。1972年にはクラブ名称をフラマン語のクラブ・ブルッヘ (Club Brugge KV) に変更し、1972-73シーズンには53シーズンぶりとなるファーストディビジョン優勝を果たした。1975年、Albert Dyserynckstadionからオリンピア・シュタディオンにホームスタジアムを移転した。1975-76シーズンのUEFAカップはオーストリア人のエルンスト・ハッペル監督に率いられ、クラブ初の欧州カップ戦決勝進出を果たしたが、リヴァプールFC(イングランド)に2試合合計3-4で敗れた。同シーズンから1977-78シーズンまで国内リーグ3連覇を達成し、その最終シーズンにはベルギーのクラブとして初めて(そして唯一)UEFAチャンピオンズカップで決勝まで駒を進めた。2シーズン前と同様にリヴァプールと対戦したが、0-1で敗れて準優勝に終わった。1987-88シーズンにはUEFAカップで準決勝に進出したが、FCバルセロナ(スペイン)に敗れた。1992-93シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグに出場し、PFC CSKAモスクワ戦でダニエル・アモカチが同大会(名称変更後)初得点を決めた。1998年、UEFA EURO 2000開催のためにオリンピア・シュタディオンの拡張工事が行なわれ、名称がヤン・ブレイデルスタディオンに変更された。2006年、ベルギーのサッカークラブとして初の公式TVチャンネル (CLUBtv) を開設した。 2015-16シーズンからは胸スポンサーをダイキン工業が務めている。